サマー・“プリズナー”・バケーション
Writer:モロクっち
Illust:菊地 享
■後編■
振り向いても前を見ても、そこは雨色の町。じめじめとした陰鬱な空気は、不思議と感じられない。腐ったミミズの臭いもない。漂っているのは四季の匂いを含んだ風だ。はっきりしない色の空を切って、1羽のヒバリがさえずりながら飛んでいく。
春の鳥は、明らかにひとつの方向を目指していた。太陽の位置もはっきりしていない空だから、どの方角に向かっているのか定かではないのだが。
あれは、春。クミノと月弥はヒバリが行く方向を見届けると、ほぼ同時に顔を下げた。ふたりの思惑は同じだ。月弥などは、先ほどあっと叫んでヒバリを指さしたことを後悔しているほどだった。
「あまり見すぎると問題ね」
「うん。でも、見失っても困るよ」
ふたりは顔を下げたまま、ひそひそと会話を交わして、足早に歩き出した。勝手のわからない町だ。道がどこにどう通じているかもわからない。北海道の町のように、道が碁盤の目状に張り巡らされているわけではないのだ。ゆるやかな起伏と曲がり道がある。すれ違う雨色の目の人々は、好奇の眼差しでふたりを見つめてきた。
辺りには、さささささ、という雨のささやきがあるだけだ。行き交う人々もおそらく会話を交わしているのだろうが、声はひどく小さいようで、ふたりの耳には届かない。すっかり雨音にかき消されてしまっているのだ。もしかするとこの雨音が、この町の雑踏にあたるものなのかもしれない。
ヒバリを追って進むにつれ、霧は深くなっていった。空と町の境界線が曖昧になっていく。ヒバリの声も、どこか遠くにあるようだ。
これまでの旅路とは打って変わって、クミノと月弥のふたりはまったく言葉を交わさなくなっていた。列車内の沈黙の再来だ。
黙って霧の中を歩み続けていたそのとき、だしぬけに、ふたりに声がかけられた。
「ねえ、どこいくの」
それは、月弥よりも幼い声だった。クミノの能面のような無表情に、警戒の色が宿る。彼女はさっと身をひるがえして、月弥を身体の後ろにまわした。
霧の中から浮かび上がるようにしてあらわれたのは、雨色の目の少年だった。年の頃は、10歳前後だろうか。月弥よりも幼いように見えたが、その顔に浮かんでいるのは、好奇心ではなく老獪な猜疑心だった。
「どこにいくの、ってきいてるんだけど」
少年は念を押すように、問いを繰り返した。クミノの後ろからそっと顔を出した月弥は、しかしどう答えたものかと思案に暮れる。
「ちょっと……見物してたんだ。この町、初めてだから」
「だろうね」
月弥の答えに、少年はませた相槌を打った。彼の顔から猜疑の色は消えていなかったが、別段その色が濃くなった様子もない。
「あんまりこのさき、いかないほうがいいよ」
「どうして?」
クミノがようやく口を開く。
「おこられるかもしんないから。それに、まよっちゃうよ。このまち、はじめてなんでしょ?」
少年は、ふたりが来た道を指差した。
「こっちまっすぐいけば、えきにつくよ」
「ありがとう。すぐ帰るから」
傘もさしていない子供は、奇妙な色の瞳でじろじろとふたりを見つめながら、歩き去っていった。彼が示した道を、ふたりはもとより行くつもりもない。報酬があるかどうかもわからない依頼だが、引き受けた以上は解決せずに引き返すわけにもいかなかった。
少年の姿が霧の向こうに消えてから、月弥は大きく安堵のため息をついた。しかし、クミノの表情は張りつめたままだ。
「警告ね」
「え、そうかな」
「町は気づきはじめてる」
深くなるばかりの霧を裂くのは、ヒバリのさえずりだけだった。
「行きましょう」
雨色の少年が示したものとは逆の方向へ、と、クミノは足を向けた。月弥も、戸惑うことなくそれに続く。
町は気づきはじめている――建物を構成する石たちは、中立の立場をとっているようだが。ふと月弥は、漂う風の匂いの中にある、落ち葉と雪の匂いが強まっていることに気がついた。そして、頭上をさあっとかすめた黒い影にも。
「あッ!!」
びイっ!!
月弥が叫んだときには、その断末魔が曇り空に響きわたっていた。ぼんやりと煙る白いで、ヒバリの命が散っていた。春の鳥をその鉤爪で捕らえたのは、1羽の鷹だ。鷹の目がきろりとふたりの異邦人をねめつけた。鷹の目は――氷色だった。
「走って!」
クミノは傘をたたむと、雨と沈黙の中を、弾丸のような勢いで走り出す。月弥もあたふたと傘をたたみ、クミノを追うようにして走り出した。
行くあては――ある。ヒバリが死んだ方角に、じんわりと姿をあらわす『駅』があったのだ。
「わあっ、クミノ! 待って! ――ちょっ、やめてよ!」
「!」
水しぶきを上げながらクミノが立ち止まる。月弥は3メートルばかり、クミノに遅れをとっていた。月弥は頭をかばいながらもがいている。氷色の目の鷹が、ヒバリを殺した爪で、月弥に襲いかかっているのだ。
鉤爪が、奇妙な音を立てた。クミノが見たのは、一滴の血も流していない月弥の傷口だ。鷹を振り払おうとした月弥の手の甲に、三筋の傷が走っていた。
「――!」
「わ!」
ものも言わずに、クミノは月弥の襟首を掴んで、後ろに引っ張っていた。鷹の標的はたちまちクミノに映った。その爪が、クミノの整った顔に向けられる。
しかし悲鳴を上げて血を流したのは、鷹のほうだった。月弥は一部始終を見ていた。クミノはポケットにもリュックにも手を入れていない。だというのに彼女は、右手にしっかりサバイバルナイフを握りしめ、あまつさえその刃で鷹に一撃をお見舞いしていたのだ。
空中でバランスを崩した鷹に、クミノは容赦なくもう一撃を加えた。
ぎちゃっ、という残酷な音がした。
クミノのナイフは鷹の細い首を抉っていた。
「離れないで!」
クミノは右手にナイフを、
左手には月弥の手を、
掴んで走り出している。
「寒暖の差が霧をつくるのよ。私たちはもう、〈霧の檻〉の中にいるの」
「じ、じゃあ、助けなくちゃならないひとは――」
「町のどこにだっていたのかもしれない」
「……だったら、閉じこめてるひとと話をしなくちゃ!」
駅の名前は、〈夏の終わり〉。ふたりは季節の変わり目から、〈夏〉を通り越して、ここまで来てしまっていた。切符を買って列車に乗れば、〈春の終わり〉に戻れるのかもしれない。
駅の外では霧が渦を巻いていた。気まぐれな秋空から、ごうごうと霧混じりの雪が降ってきているのだ。
「ねえ! 聞いてよ!」
白い渦めがけて、月弥は叫んだ。
「俺たちの〈夏〉、どこにやったの?!」
「あなたたちが、彼をここに閉じこめてしまったのよ」
駅の中から、女性の声が上がった。駅の中は冷えこんでいた。町の中の、はっきりしない湿度と気温とはまるでちがう。骨身に沁みる寂しい寒さが、駅の中に広がっているのだ。
クミノと月弥は目配せをすると、ゆっくり狭い構内に入っていった。
〈夏の終わり〉で、ひとりの貴婦人がイーゼルを前にしていた。黄色ともカーキ色ともつかないカーディガンとタイトスカートを身につけ、茶やオレンジの絵の具を載せたパレットを手にし、憂いを含んだ目でキャンバスに向かっている。年老いているようにも見えたが、30代のようにも見えた。
「……あなたは?」
「ここで、待っているものよ」
クミノの問いかけに、婦人は振り向かない。キャンバスに茶色を塗り、首を傾げて、パレットナイフを手に取る。そして、今しがた乗せたばかりの茶色を拭い取った。だが次の瞬間には、また同じ茶色を乗せた。……気持ちが、変わりやすい性分なのだ。きっと。
きっと、秋の空のように。
「夏が俺たちのところに来なかったら、秋も冬も来れないよ。順番なんだもの。そうだよね?」
キャンバスに描かれかけている秋を見つめて、月弥がぽつりと呟いた。婦人が黙って筆を置く。
「いいや。時が往けば、諸君は秋と冬の到来を思い描くだろう。四季はそれを認識する人間がいて初めて、そこに存在する。獣も空も木々も、人間が見つめるからこそ存在している」
かつんこつん、と靴底が床を踏む音が近づいてきた。振り返って見てみると、そこには痩せた初老の男が立っていた。彼は――軍服だった。白と灰色の軍装に、毛皮のコートを着こんで、白い息をついている。
「彼を〈変わり目〉に閉じこめたのは、昨年の諸君の強い想いだ」
「『こんなに暑い夏なんて嫌だ、要らない』って、思った人が多いでしょう」
「甚大な被害を与えた台風も、夏が作り上げたもの」
「あなたたちはほんの少しだけでも、夏を恨んだのよ」
「だが」
冬色の男が、白い息を吐きながら身体をかがめて、月弥とクミノの顔を覗きこんだ。その目の色は、氷色。あの鷹の目だ。冷徹で静かな、冬の色だ。百戦錬磨の皇帝をも、彼はたやすく退ける。
彼は、すべてのものに死を贈る、慈悲深い将軍だ。
「諸君は『迷い』に他ならぬ」
「日本の人々は、7月になれば夏が来るものと信じているわ」
「来るはずのものが来ないことに対する不安と疑問。それがいずれは迷いに変わる。夏など要らぬと呪いながら、夏は必ず来るべきだと考えるのだ。こころが迷い、我々を探しだそうとする」
「迷うのなら、連れていきなさい。それまでの憎しみをはねのけて」
「我々は諸君の想いに力を貸してきた。だが、諸君が迷っていることが判明した以上、助力はもはや必要ないな」
冬色の将軍は、氷で出来た指示棒で左の手のひらを叩いた。
彼は微笑しているような憮然としているような、複雑な表情だ。その目が、駅前を見つめている。
駅前には、白く渦巻く霧が広がっているばかりだ。舞う落ち葉と吹雪はおさまっている。
月弥はふたりに、ちょこんと頭を下げた。
「……俺、勘違いしてたよ。あなたたちが夏を閉じこめてるんだって」
「雨色の私たちが、彼を許そうとしていなかったのね。だから町が、敵だった」
クミノは目を細め、霧を睨みつけた。雨色の目の人々が、ゆらりゆらりと霧の中に浮かび上がる。霧の檻の出口は、閉ざされたままだ。
ならば、こじ開けるより他はない。自分たちで蒔いた種であるなら。
「……会えるよね? 今年も」
「あなたたちが望むならね」
婦人は嬉しそうに目を細めて、月弥の言葉に相槌を打った。将軍はうっすらとした苦笑いをしながら、指示棒を握りしめる。
「私は恨まれるにも慣れた。そう望んでもらえると嬉しい」
「……冬にだって、想い出はあるわ」
クミノはこの駅に、そう言い残した。あとは、月弥の手を取って、
「行くわよ」
そう宣言しただけだった。
駅の中から飛び出せば、たちまち、じっとりと湿った霧がふたりを取り囲んだ。雨色の人々が、いまやふたりを敵だと認識し、抗議の声を上げながら手を伸ばす。月弥の瞳のやさしい光は、湿った雨色の人々の心には届かなかった。〈変わり目の町〉の住人は、夏が曖昧なままでいることを望むもの、そのものだ。この町の住人はこの町に起きる変化を拒絶している。
けれどそれは、悪だろうか。
誰しも思うことがあるだろう。
時よ、とどまれ! おまえはあまりに美しい!
その季節が永遠であればと願うものは、必ず居るのだ。もう二度とこんな季節が巡ってこなければいいのにと、呪うものも間違いなく存在する。冬将軍は言っていた、「恨まれるにも慣れた」と。彼はしかし、すべてのものを滅ぼす季節であるから、呪いの囲みを突破して、いつも無理矢理やってくるのだ。
夏は本来、多くのものが待ち焦がれる季節だった。
太陽! 海! 蝉の声!
朝っぱらのラジオ体操と、夕暮れのサイレン。
*****
(久美乃)
(やっぱり、海は今度にしよう。母さんがいいところを見つけたんだ)
(ぶどう狩りなんてどう? いいぶどう園があるらしいの)
(あんまり甘いぶどうはだめだな)
(久美乃は甘いもの、だめなんだものねえ)
(海の家でカキ氷、っていうのもだめなんだなあ、残念だ)
(久美乃)
(あら……海が、いいの?)
――どこだっていい。お父さんとお母さんと……ほんの一瞬でも……一緒に過ごせるなら。いつだっていいわ。夏だって冬だって。もし、夏に一緒に過ごせたら、次の夏がきたときに……そのまた次の夏が来たときにだって……思い出せるでしょう。ぶどうの味も、海の匂いも。
ああ。
海は、無臭なの。
あの匂いは、海の中で死んだものが、腐って溶けている臭いなのよ。
夏が来るたびに……思い出すわ。
*****
(やはりあいつには、髪飾りよりも帯締めを贈るべきだろう)
(髪型はころころ変えてしまうが、帯は必ず締めるものだからな)
(桜色の帯とともに、花見に行こう)
(夏の蒼い帯にも、この石は合う)
(秋の山吹色にもふさわしい)
(冬の冴えた白銀の帯は、これによりいっそうの輝きをもたらすだろうから)
――なんだっていいのに。早く、贈ればよかったのに。俺は何にだって姿を変えられる。いつだっていいんだ。贈ってから変えることだって出来たのに。俺も一緒に、見たかったよ。桜も花火も紅葉も雪も、俺はどんな格好になってたって見つめることが出来たのに。
どうしてひとときのかたちにこだわっちゃったんだよ。
俺は、あのひとの季節を一緒に見たかったのに。
なんでピンブローチなんだよ。
なんで、最初の髪飾りのうちに、贈らなかったんだよ……!
*****
ササキビ・クミノに向けられた悪意がはね返る。彼女の手の中に現れた火炎放射器が、その『お返し』の象徴だ。
「そ、そんなの、持って来てたっけ?!」
さきのサバイバルナイフの件も含めて、クミノにしがみついたまま月弥が尋ねる。
「喚んだのよ。私の〈障壁〉が、勝手に。かれらの攻撃はこの武器に値する殺傷力を持っているということね」
「そ、そうかな。なんか『倍返し』って感じがするよ」
おう、い――。
クミノが火炎放射器のノズルで町の住人を跳ね除けた。霧の中から、確かに声が聞こえてきたのだ。
「この声!」
月弥が叫んだ。
「さっき聞いた! 探してるひとの声だよ!」
「また聞こえたら、返事をしてあげて」
クミノは大声を出すことに慣れていない。元気な少年にその大役を任せると、彼女は立ち回りを自ら引き受けた。霧に向かって容赦なく、炎を浴びせかけたのだ。雨色の人々が悲鳴を上げて、炎の少女から距離を取った。
おう、い――。
「お―――――いッ!! 『迎えに来た』よ!!」
月弥は蒼い目をぎゅうとつぶって、両手で口を囲み、精一杯の大声を張り上げた。
「お―――――いッ!! 〈夏〉は、どこーッ?!」
クミノが月弥の肩を掴んだ。そして、するどく霧の向こうを指差す。
「あっちよ!」
彼女は、声を張り上げたつもりだった。
「カモメの鳴き声がした」
それは彼女の想い出の中で、どれほど月日が経とうとも、色褪せることのない鳴き声だ。カゥ、カゥ、カゥ。カモメが鳴いている。
それに重なる涼やかな音色は、風鈴の音だ。
「火薬の匂いもするよ」
月弥が思わず微笑んだ。
「花火なんだ……」
クミノが気づけなかったはずである。硝煙の匂いは、クミノが常日頃嗅いでいるものだ。自分に沁みこんだ匂いなのだと思っていたが、違うようだ。カモメと風鈴の音のもとに、花火の匂いがある。
ぱあ、ん。
霧を裂く音と光は、確かにあった。
クミノは表情を変えず、火炎放射器のトリガーを一度だけ絞った。蒸発する霧をかき分けて、ふたりは走り出す。人々の迷いの象徴が、迷うことなく〈夏〉を目指した。
夏!
唐突にふたりの視界が開け、ひとりの男が現れたのだ。まるで霧が彼を避けているか、彼が霧を吹き飛ばしているかのどちらかとしか思えない光景だ。霧の中にいるはずなのに、男の姿はくっきりとしていた。
「オレを待っててくれたのか?」
年の頃がよくわからない男だった。顔立ちだけ見れば壮年であるが、若者のようにはつらつとしている。そして暑苦しいくらいに笑顔がまぶしかった。
この男が、閉じ込められていたものだ。間違いない。
「〈夏〉そのものね」
「すごい。ほんっとに、〈夏〉」
「そりゃそうだ!」
呆れたようなふたりの第一声に、男はいやにまぶしい笑顔で返した。
真っ白い歯がくっきりと映えているのは、男がこんがり日焼けしているからだ。靴はビーチサンダル、はいているものはハーフパンツ。着ているものはハイビスカスとカモメ柄の青いアロハシャツときたものだ。
「オレを連れて行ってくれるのか? ……オレが行かなきゃ、困るかな?」
「『そりゃそうだ』!」
からっ、とつられて笑ったあとに、月弥はくるりと顔色を変えて、神妙な面持ちになった。
「夏が来ないと、花火出来ないし……夏休みだって必要なくなっちゃうかもしれないし……」
「海の家はカキ氷を出せない」
「想い出を作りづらくなっちゃうんだよ。俺たち、四季と一緒に動いてるんだもの。それに……俺の『父さん』、毎年花火見に行くのが楽しみだったんだよ。いっつもうつむいて彫金ばっかりしてたから、まともに顔を上げるのは花火とか桜とか紅葉とか雪を見るときくらいで――」
月弥は夢中になって『父』のことを話して聞かせた。それから男の手を取ると、青月長石の目で彼を見上げたのだ。
「去年はすっごく暑くて、確かにいやになったりしたけど……やっぱり夏が来ないとへんだよ」
「もうあなたを恨みたくないから、ほどほどにしてもらいたいけれどね」
クミノが冷静に釘を刺せば、男は苦笑いをして頭を掻いた。
「いやあ……面目ない。わかった、今年は『ふつうの夏』にするから。花火が楽しめる程度に、カキ氷が食える程度に。な? 約束するよ」
カゥ、カゥ、カゥ――。
霧の中を、戸惑ったようにカモメが飛んでいる。男はカモメを見上げて、顔を曇らせた。
「ずっと迷ってたんだ……道もわからないし……みんなが来てほしくないって思ってたから。オレは、ほら、ひとがいいからさ。人には笑っててほしいから。冬みたいに、強行突破するべきなのかどうか迷っちゃったんだよ」
「大丈夫。みんな待ってるから」
男の目を見つめながら、月弥は男の手を握る手に力をこめた。月弥の蒼い目に、ぼんやりと、月の光が宿る。
「みんな笑ってくれるよ」
月弥を見下ろしていた男は、ゆっくりと――嬉しそうに微笑んだ。
「そっか」
その男の目は、海や夏の空のように青かった。
「なら、行かなくちゃな」
「あなた、〈夏〉でしょう。ライターはある? 花火には欠かせない道具のはずだけど」
クミノが出し抜けにそう言った。彼女の表情といまの状況は、花火を楽しむというシチュエーションにふさわしくない。男は面食らいながらも、素直にハーフパンツのポケットを探り、100円ライターと線香花火を取り出した。クミノは無言でライターだけを受け取り、その場に屈みこんだ。
「あ――」
月弥がクミノの前を見て、声を上げる。霧の中に続く『道』を――いや、『糸』を見い出したのだ。クミノは火炎放射器のボンベに詰まっていたゲル状の燃料を、アリアドネの糸代わりに垂らしてきていた。クミノは火炎放射器のバーナーを使わず、わざわざ100円ライターでゲル状燃料に火をつけた。
しかけ花火に点火をしたのだ。
「さあ。私たちは、〈夏の始まり〉に戻るのよ」
霧を切り裂く炎の道が、静かにのびていく。タール混じりのゲル状燃料に放たれた火は、生半可な抵抗では消えることがない。霧は焼き尽くされ、ぼんやりとした道筋を作り上げていった。
その向こうにかすかに見えるのは、先ほど月弥とクミノが一時的に避難した、あの駅だった。〈夏の終わり〉だ。
月弥が、ぐいっと男の小麦色の手を引いた。クミノが走り出す。3人は炎の道を辿りはじめた。霧は、男が進めば退いていった。苦々しげな視線と雨色の手を振り払って、〈夏〉は行く。季節の変わり目から、連れ出されていく。
〈夏の終わり〉に、あの貴婦人と将軍の姿はなかった。
「ほら、切符」
男はアロハシャツの胸ポケットから、海色の切符を2枚取り出し、月弥とクミノに手渡した。行きで依頼主から受け取ったものと同じ、厚紙で出来た小さな切符だ。行き先は〈夏の始まり〉になっていた。おそらく、〈春の終わり〉と同じ駅なのだろう。ただ、行きの切符と様子が違うのは、その色だけではなかった。赤いスタンプの『特急』二文字が、目にぎらりと焼きつく。
「〈変わり目の町〉に停まったら何されるかわかんないしな! 特急は早いぞー!」
「それはわかってるわ。駅が近づくごとに減速しないですむのだから」
「ああ……なんだ、いやにドライだね……」
「大丈夫。クミノはすごく優しい子だよ」
「……」
クミノは黙ってフォームに目を戻す。特急列車が――入ってきていた。
濡れた傘を持って、月弥とクミノが列車に乗り込む。男も嬉しそうな満面の笑顔で、ふたりに続いた。やはり、他の乗客の姿は見当たらない。
四季はこうして、いつもたった一人でやって来るのだろうか。
待ちわびている人々の顔を思い浮かべながら。
「ああ……」
ドアが閉まり、男は車窓からフォームを見て、思わずといったふうに声を上げ、手を振ろうとしていた。
フォームに、いつの間に戻ってきていたのか、秋空の貴婦人と冬将軍が立っていたのだ。
けれどもその二人の姿は、すぐに小さくなって、視界から消えてしまった。この列車は『特急』なのだ。月弥とクミノが行きに乗った列車の数倍の速度で、列車は季節をさかのぼっていく。
霧に包まれた駅が、たちまち霧の向こうに流れて消えていった。
「こうやって連れてってもらうのは、実は初めてじゃないんだなあ」
男は湿気た線香花火をくるくるともてあそびながら、席に座って、そうぼやいた。
「こんなグタグダ感が、オレたちらしいのかもな。ほとんどの人たちにとっちゃ、オレたちは、いつやって来て、いついなくなったかわからないものなんだ。外を見たときに、ふうっと……『ああ、夏だな』って思うんだ。そうだろ?」
桜色の少女も、この男も、秋空の貴婦人も、冬将軍も――
そばにいることに、何の疑問も感じないものたちだった。彼が言うとおり、いつ現れても、いついなくなっても、誰も心配したり驚いたりすることはない。かれらには、姿がない。ふと気がつけば、すでにそばにいる。感じ取れるのは、かれらの気配だけだ。
「ほい。夏の列車のお供に」
男はひょいと、大皿に載せたスイカをふたりに差し出してきた。もちろん、駅で男がスイカを買っているところなどふたりは見ていないし、そもそも男は手ぶらであったはずなのだが。
けれども別段疑問を抱かず、ふたりはスイカに手を伸ばした。〈春の終わり〉を出て数時間、何も口にしていなかったせいもある。
スイカを食べ終えた頃には、きっと特急は駅についている。そしてこの男は、見えなくなっているのだろう。
「これくらいしか、礼できないんだけど……許してくれるか?」
「お礼なんていいよ。当たり前のことをしただけなんだもの」
「……そうかもしれない。私たちがあの町に行ったことそのものが、きっと自然の流れなのね」
クミノはスイカの種をナイフで除けながら、ぽつりと呟いた。
「カキ氷に挑戦してみてもよかったかしら」
特急列車を降りるときまで、確かに男の存在をみとめていた。アロハシャツに、日焼けした肌。夏の代名詞を集めただけの男。最後にふたりが見上げた男は、フォームの屋根の間からのぞく空を、嬉しそうに見つめていた。
切符を回収した無貌の駅員が、ぽつりと言った。
「おつかれさまでした」
「おうい!」
駅を出た先は、〈春の終わり〉駅へと続く門があった、何の変哲もない住宅街だ。石神月弥とササキビ・クミノは、戻ってきた。〈春の終わり〉――〈夏の始まり〉に。
クミノが見ているそばで、月弥の手に走っていた三筋の傷痕が、すうと消えていく。彼女は黙って、月弥の視線の先を追った。
そこは、空だ。いまだに晴れぬ、白い、はっきりとしない空だ。うんざりするほど見飽きてしまった空である。月弥はその空に、告げている。
「おうい! 〈夏〉を連れて来たよ!」
途端に、ざあっ、と雲が退いた。
まるで太陽に追い立てられているかのように!
白い厚い雲が去ったとき、あらわれたのは青い空だった。月弥が空色の傘を放り投げ、クミノは表情を変えずにそれをキャッチした。
「クミノ! おつかれさま!」
「……おつかれさま」
「今度海の家でカキ氷食べようよ」
「……また会うことが、あるかしら」
「あるさ、絶対。――そうだ、その傘! そのときまで、貸してあげるから!」
クミノは、ふと気がついた。タータンチェックの傘を、あの霧の檻の中に忘れてきてしまったらしい。ナイフを振るって月弥の手を引いたときか、火炎放射器を両手でしっかり構えたときか、ともかくあの霧の騒ぎの中で、傘を手放してしまっていたのだ。クミノはキャッチした月弥の傘を、まじまじと見つめた。まったく、目が醒めそうなほどのあざやかな空色だ。
「じゃあね!」
夏のように明るく笑って、月弥は走り去っていく――手を振りながら――雨上がりの涼しさとともに。
やがてこの涼やかな空気は、夏の熱気を孕むのだろう。
「――夏が来る前に、夏の想い出が出来たわ」
クミノは呟き、月弥の傘を丁寧にたたんだ。すでに太陽の光はぎらぎらと、クミノの黒髪を温めはじめている。アスファルトにしがみついた湿気が、じりじりと干上がっていくのがわかる。
今日の最高気温は、30度を越えるだろう。
夏、到来!
<了>
【整理番号/PC名/性別/年齢/職業・クラス/登場ゲーム】
1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。/東京怪談
2269/石神・月弥/男/100/つくも神/東京怪談
モロクっちです。夏季限定メモリーノベル、後編をお届けします!
四季の姿には若干……というかかなり……モロクっちの趣味が入っているのですが(特に冬!)、親しみを持てる存在に出来上がっていれば幸いです。多くのものにとって、曖昧な季節の変わり目。今年のその瞬間に立ち会えたのは、月弥さまとクミノさまのお二人だけのようです。
このお話が、おふたりにとって、今年の夏の想い出のひとつでありますように。
ご発注、ありがとうございました!