リッキー・ホラー・ショウ 〜DEATH & REBIRTH〜

Writer:リッキー2号
Illust:内田緋竜




 もう一度、死ぬまで、あと24時間。
 世の摂理を曲げて、甦った肉体は、しかし、再び、さだめられたとおりの死へと、還ろうとしている。
 運命の砂時計が、静かに、砂粒を落しはじめた――。


後編:再び死す朝


人間は「死への存在」である  ――ハイデッガー


  1

「ごめんなさい、開店は10時からなんですよ――」
 ブティックの女店主は、その日の朝、店のドアを叩く音に気づいて、そう応対した。……だが、その客を前にするや、はっと言葉を詰まらる。
 美しい男性だった。
 彫像のような顔かたちに、貴金属を溶かして流したような髪。日本人ではないようだったが、むしろ、人間離れしているといっていい姿だった。
 そして……
 その肌には血の気がまったくない。そんな人物が、白い、簡素な寝巻きめいた服を着て、そこに立っていたのである。
 もしも、今が嵐の夜であったなら、亡霊かヴァンパイアを思い浮かべ、悲鳴をあげていたかもしれない。だが、時刻は一日がはじまろうとする、さわやかな朝なのだ。昨夜はひどい嵐だったが、それは夜のうちに去り、天気は快晴で、むしろ空気は澄み切っていた。
 それにしても、この格好は。不吉な屍衣めいて見えるけれども、もしかすると、病院の入院患者かもしれない。入院着のまま、出てきたのだろうか。
 そこまで考えて、店主は、不気味な事実につきあたる。
 病院は――、見舞客やスタッフが立ち寄るという形で、この店にも恩恵をもたらしてくれていた、近くの丘の上の大病院……聖リッキー病院は、昨夜、火災に遭ったのではなかったか。
 未明の闇を裂いて、消防車のサイレンがうなり続け、丘の上の夜空はあやしく炎の色に染まり、今朝の新聞にも記事が載ったはずだ。
 この人物が件の病院の患者だとするなら、火事の生き残りだとでもいうのだろうか。それとも…………
「すみませんが」
 美丈夫が、口を開いた。
 店主が考えに耽っていたのも、ほんの一瞬のことだ。
「あ、はい」
「服をいただけませんか」
 その不思議な青い瞳に、吸い込まれるような錯覚を、彼女は感じた。
 それからあとのことを、その女性はよく覚えていない。

「代金はあとで私のほうから支払っておきますから」
 セレスティは、仲間を振り返った。
 シュラインは、すこし申し訳なさそうな顔をしながらも、ラックに吊られた服を物色しはじめる。なにせ、皆、入院着というか、屍衣のままなのだ。これでは街で活動するのもままならない。クミノも、不本意そうではあったが、それに倣う。
「和馬さんはどうする?」
 シュラインが眉を寄せる。なにせ、女物の服の店であった。セレスティであれば、女物のブラウスでも、下にパンツさえ穿けば、決して奇異ではなかっただろう。しかし、和馬に似合いそうな服は見当たらない。
「俺ぁ、これで充分」
 肩をすくめる。ボタンがとれて前をはだけたままのシャツには、ところどころ破れたり焦げたりしていた。
「なんとかするよ」
「そう……。じゃあ、失礼して」
 セレスティの魅了の視線にとらわれて、ぼんやりと瞳をさまよわせている店主をよそに、フィッティングルームに消えるシュライン。
「……で、どうするつもりだい」
 和馬はセレスティに問いかけた。
「私は、やはり、家に帰ろうと思います」
 逡巡の色をにじませながらも、セレスティは言った。
「和馬さんはどうされるのです」
 反問される。
「俺は…………そう……俺も――ひとまず帰ってみっかな」
 言いながら、和馬は、それぞれが戻ろうとしている「家」の違いを思って目眩にも似た感覚を味わう。セレスティの家は豪邸であろうし、おそらく何人もの使用人たちがいるはずだ。一方、和馬のアパートは殺風景で、狭く、そして、誰ひとり待つものとてない……。
「けど、家に戻るったって……」
 和馬は言いかけたが、その先を口にしてよいものかどうか迷った。
 それは4人とも、重々、わかっているはずのことだ。
 自分は一度死んでいる。
 そしてそのことを、周囲の人間は知っているはずなのだ。
 聖リッキー病院で、狂気の医師が暴走をはじめるにあたって、セレスティは巻き込まれ、殺害されたのである。名士であるセレスティの死は、すでに全世界に報道されてもいた。
 死から復活して、また、元通り暮らせるというならそれでもよい。
 だが、そうではない。甦った死者は、今日の一日を過ぎれば、再び死にゆかねばならないのである。
「ええ、承知しています」
 考えを見透かしたように、セレスティは応えた。
「私の周囲の人々は……私が愛し、私を愛してくれた人々は、私の死をすでに受け入れてしまっているわけです。そこにもう一度、私が生きてあらわれ、再び死ぬことは、皆に、二度の哀しみを与えることになります」
(俺が愛し、俺を愛してくれた人――)
 セレスティの言葉を、和馬は自分に置き換える。
 自分の死を周囲はどう感じ取っただろう。
「ですが……それでも、私は私がいつも帰っていた場所に、帰るべきだと思うのです。……満足に、お別れも言えなかったのですからね」
 そう言って、美貌の財閥総帥は、うっすらと微笑むのだった。

 朝は涼しかったのに、日が高くなるにつれ、日光がじりじりと地上を焼きはじめる。今日も、暑い一日になりそうだった。
「興信所?」
 クミノは、バイクのエンジンをかけようとしている(そのバイクも、やむなく“拝借”したものだ)シュラインに声をかける。シュラインは頷いた。しかし、
「でも会わないつもり」
 硬い声でそう続ける。
「……」
 包帯のあいだから見つめるクミノの瞳に、翳りのようなものが差したのは気のせいか。だがいずれにせよそれは、彼女自身のための哀しみではない。
「それはむろん自由だけど。…………煙草の約束があったのでは?」
 その言葉を待っていたように、シュラインは、1カートンの煙草をクミノに差し出す。怪訝な目が、シュラインを睨むように見返した。
「届けてきてあげてくれないかしら」
「断る」
 即答だった。
「この姿で誰に会えと? 私であってさえも……、あの探偵は、身近なものの死を悼まない人間じゃない」
「…………」
「たとえその哀しみが、羽ほどの軽さだとしても、わざわざそれを与えにいくほど私は悪趣味じゃない」
「だったら、なおさら、私は会えないわ」
 絞り出すように、シュラインは言うのだった。
「私が、彼にとって一番大事な人間だったからだなんて、自惚れるつもりはないの。クミノさんの言う通り、彼はあなたの死だって哀しんでくれているはずだもの。……正直、どうすればいいのかわからないのよ」
 ふっ、と、クミノは唇に笑みを浮かべる。
「あなたにも、わからないことが?」
「……ともなく、これだけは何とかするわ」
 煙草の箱に視線を落し。
「約束――だったから」
 そして、シュラインを乗せたバイクは走り去ってゆく。
 排気ガスの匂いを感じながら、クミノはしばらくそこに立ち尽くしていた。
 なすべきことなど、何もない。
 いつ、なにがあっても、問題のないよう身辺は整理されているからだ。
「――」
 少なくとも、死ぬまでここに立っているわけにはいくまい、そう思って、きびすを返したとき、クミノは何者かに呼び掛けようとして、やめた。
 誰に、だ?
 こんなとき、声をかけるべき、自分に付き従うものがいたのではなかったか。
 それともそれは、また別の世界、別の人生でのことだったか。
 ゆっくりとかぶりを振る。
 それはわからないし、今となっては、わかる必要もなかった。
 自分はこの街に、この世界に、何のつながりもない。あの探偵は、クミノの死も悼んでくれる、とはいうけれど、だが、彼女が消えて彼の世界の何が変わるだろう。
(居るべき場所なんてどこにもない)
(いいえ――)
(最初からなかったのかも)
 シュラインやセレスティはおろか、藍原和馬でさえ、胸の内に誰かのおもかげを抱いていたというのに。
 ササキビ・クミノは――いや、本当は、違う誰かであったのかもしれない少女は――、ひっそりと、東京の雑踏へと自分まぎれこませてゆく。あくまでも、匿名の死者として、消えていくために。

  2

「やるコトねェ……」
 和馬は独りごちる。
 アパートまでたどりつき、服を着替え(彼の制服ともいうべき黒スーツである)、冷蔵庫の中で傷んでいた食べ物を全部捨ててしまうと、もうやることはなにもないのだった。
 とりあえず、部屋の掃除をしてみた。
 だがそれとて、さほど広くもない、ろくに家具もない部屋では、大して時間もかからない。
 かくして、まだ昼にもなっていないのに、彼はワックスがけをした床の上に転がって、ベランダのガラス戸ごしの空を見ている。
「あと17時間くらいかね……やれやれ」
 目を閉じる。
 あるいはこのまま、最後の時を迎えるのなら……。
(いや、それはマズイな)
 ここで死ねば、いずれ誰かが和馬の死体を発見することになる。
(誰が見つけてくれるってんだ。アパートの大家ならまだいいが……)
 がばり、と飛び起きた。
 しばしの黙考のあと、彼は仕度をはじめる。
 所詮、自分は、ゆっくりと休むことなど似つかわしくない。
 死のその瞬間まで、どこかへ向かって動いているべきなのだ。
 クローゼットから、和馬はそれを取り出す。
 夏なので、使うこともなかったマフラーである。
 やわらかな手触りを、いとおしむように、掌に味あわせたあと、それを手に、彼は部屋をあとにするのだった。
 あるじのいなくなった部屋のドアが、音を立てて閉じる。
 これでもう、この部屋に戻ってくるものは誰もいないだろう。

 都内某所に、ひそやかに、しかし、相当の広さの土地をおさえて存在しているカーニンガム邸である。今、この屋敷を、静かな興奮が包み込んでいた。
 一度死んだはずの、あるじが戻ったのである。
 皆、驚いたのはむろんのこと、涙ぐむものもいれば、卒倒するものもいたという。
 だがしかし、屋敷のすべてのものが、彼の生還を知ったわけではなかった。
 また、財閥にも報せてはいない。
 無用な混乱を避けるためである。
「ほんのすこし……、そう、忘れ物を取りに戻ったのだと、思って下さい。そしてこのことは、どうか内密に」
 セレスティは人さし指を唇にあてて、悪戯めいた笑みを浮かべる。そうだ、いつだって、この財閥総帥は、一角の人物であるはずなのに、いつまでも子どものようなところがあった。
「どうせ、すぐにまた旅立たねばならないのですからね」
 そして、悪戯な少年のような笑みに翳りが差す。
 それでも、セレスティは微笑んでいた。
 笑うべきだと、そう思ったのだ。
 それから――
 清浄な湯が、セレスティを浄めた。
 バスタブに張ったぬるま湯に、身体を沈めながら、深く息をつく。こうして水にたゆたっていると、死の穢れが、すべて洗い流されていくような気がする。
 死――。
 人魚として海に生まれ、700年以上の時を生きてきたセレスティである。
 彼にとって、死とは観念でしかなかった。むろん、その永い生の中では、近しいものたちを幾人となく見送ってきたのだし、その中には身を切るような別れもあった。そしてそれだけでなく、世界には死というものがあふれていることを、つぶさに見てきた。地上の人間たちは、戦争で、飢饉で、屍の山を築いてきたのだし、自ら命を断つものもいれば、同胞の命を奪うものもいた。
(けれど、私は……)
 たぷん、と、水に、頭まで浸かる。
 銀の髪が、水草のように広がり、ゆらめいた。
(死について、なにもわかっていなかった)
 それがこんなにも空虚で、こんなにも冥(くら)いものだったなんて。
 ある意味では、誰よりも、多くの死を見てきたはずなのに、その自分が、死そのものについて何も知らなかった。そうなればこそ、セレスティは、莫大な資産を保有する財閥の総帥としてはあるまじきことに、生前に遺言を遺しておかなかったのだ。この日の帰宅は、それも目的のひとつであった。
(自分の死――これだけは、どんな人間にも一度だけ与えられる、唯一の《特権的な死》。誰も、自分の死をかわりに死んでくれる人はいない。……なにか、そんなことを書いた本があったような気がしました。書斎にあるでしょうか……)
 水の中で目を閉じていると、セレスティはそれだけで何時間も過ごしてしまいそうになる。あるいはこのまま、心地よいたゆたいの中で眠りにつけたら、という誘惑がよぎりもしたが、それを振り切って、水面に顔を出す。残された時間はそう多くない。それまでに、自分の生をまっとうしなければならない。
(生をまっとうする――)
(それとも、死を……?)
(人は死ぬために生きているのか)
(生きるために死ぬのか)
 やわらかなタオルに身をつつみ、水滴を吸わせる。
 血の気はうせていたが、もともと透けるように白い肌だ。鏡に映るのは青年の完璧な肉体でしかない。何時間かかの後には、死の運命が待っているとは信じられなかった。
 セレスティはゆっくりと、最後の身支度を整えてゆく。
 忠実な執事が用意したと思われる服の上には、一輪の薔薇の花が、そっと置かれていた。
「…………」
 そっと微笑んで、セレスティはその花を胸に飾った。

 同じ頃、和馬の駆る車は、東京の街を走り抜けていた。
 何度となく、この車で出掛けた。
「なんつうか……、楽しかったよな。うん、楽しかった」
 独りきりのドライブなのに、和馬は呟く。まるで、空っぽの助手席に語りかけるように。
「長過ぎるくらい生きたような気がすっけどさ……、ここ何年かが……、東京に住んでた何年かが、いちばん楽しかったような気がする。……昔のことは忘れてるだけかもしれないけどな」
 窓の外に流れ去っていく風景は、見慣れた街並だった。
「ごみごみした、うるさい街だ、って最初は思ったもんだけどさァ」
 どこか自嘲めいた笑み。
「でも、独りっきりで生きていくには、流れもんが潜んで生きるには都合のいい街だとも思った。……そうだよ、独りでいるつもりだったんだ。それが、いったい、どこでどうしちまったのかねェ」
 和馬のアドレス帳には無数の名前が並んでいる。
「こういう日がいつか来るから……独りでいるはずだったってのに。……でも、まあ、知り合っちまったもンはしようがねェわな。それに……、どいつもこいつも面白いヤツらだったからなァ」
 それが和馬なりの、別れの言葉だったのだろうか。
 車はどこへ向かっているのか。
 無軌道なようでいて、しかし、行く先々で、和馬の脳裏によみがえってくるものがある。
 それはいずれも、東京で出会った誰かと、過ごした記憶のある場所だった。
「挨拶していってもいいんだが……、いや、それはやめとくか――」
 流れ去ってゆく、なつかしい場所。
 ――白王社。あやかし荘。アンティークショップ・レン。神聖都学園。そして、草間興信所。…………。
 それだけではない。
 行きつけのネットカフェ。いつかのバイト先。休日に連れ立っていった水族館。特大パフェを注文したファミリーレストラン。誰かに襲われて死闘を演じた倉庫街。あやしい事件の調査に赴いた劇場。いつも奇妙な事件が起こる公園。クマの着ぐるみを着て風船を配った遊園地。不思議なホテル。あの翠色の石を見つけた裏通りの店――。
 この東京にいた時間だけでも、それなりの歳月の積み重ねがあるのだ。
 そこには、それだけの出来事や、出会いが、降り積もっている。
 コマ落しのように、あらわれては消える記憶を追い掛けるように、和馬は車を走らせるのだった。

  3

 ――遅くなってごめんなさい。

 そのメモの、文字を見たら、彼は何を思うだろうか。
 だが他に方法が思いつかない。いや、方法はいろいろあるだろうが、どうするのがベストなのか判断できない。
 クミノをして、彼女らしくないと言わしめた戸惑いを、シュラインはまだ引きずっていた。
 ドアの前にそっと箱を置く。
 足音を忍ばせて、立ち去ろうとするが……、だが、シュラインの鋭敏な聴覚は、薄いドアの向こうの音を、まざまざと拾ってしまうのだ。
「零、コーヒー入れてくれ」
「はい」
 そんな、なにげない、やりとりにさえ。
 思いのほか、自分が揺さぶられるのだということに気づく。
「ごめんなさい、兄さん。コーヒーも買い置きがないみたいで……今から入れるのが最後の一杯です」
「んだとォ?」
(バカね。……ああ、零ちゃんに教えてあげたことあったかしら。コーヒーは3丁目の深夜スーパーのがいちばん安いって。『クォリティブレンド』っていうやつよ、いつも買ってたのは)
 今すぐにでも、このドアを開けて、駆け込みたい衝動に駆られる。
 探偵はきっとくわえ煙草をぽろりと口から落し、唖然とした表情のまま固まるだろう。
 なつかしい興信所のオフィスは、きっと、彼女が出ていったあの日から、一度だって掃除されていないに違いない。もしかしたら零ちゃんが気をきかせてくれたかもしれないけれど――、とシュラインは思った。しかし、彼女のデスクはたぶんそのままだ。処理中の資料を、他の誰も扱えないからである。ファイルをどこに戻せばいいのかもわかるまい。
(これからは、なんでも自分でやってもらわなきゃいけないのよ、武彦さん)
 その名前を思い浮かべただけで、疼くような感覚があった。
(でも出来るでしょ……だって、私が来る前に戻るだけなんだから。すぐに慣れるわよ。すぐに…………。もうすこし余裕が出てきたら、新しい事務員の人を雇ってもらってもいいんだけど――)
 コツン、と、シュラインの靴の先が、ドアを蹴ってしまったのは偶然だ。
「ん? お客か?」
「音がしましたね」
「零、見てきてくれよ」
「はい」
 草間零は、ドアを開けた。
「……」
 雑居ビルの廊下には、誰もいない。
「誰もいませんよ」
「気のせいか」
「幽霊じゃないですか」
「ここをどこだと思ってる」
「え?」
「草間興信所。『怪奇の類、お断り』」
 零は、足元の箱には、そのときはまだ気がつかなかったようだ。むろん、ビルの外で響いた、バイクの発進音にも、だ。

「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思っていたわ」
 そんな出迎えに、シュラインは頬をゆるめる。
「なにもかもお見通し、というわけ?」
「そういうわけではないわ」
 高峰沙耶の腕の中では、いつものように黒猫が訪問者をじっと見つめていた。
「これも異界のひとつでしかないのだから」
「界鏡現象ね。……それでは、どこかに、こうではなかった現実もあるということよね」
「無論」
「救われるわ」
 シュラインは言った。別の世界では、シュラインが無事に、調査から帰還しているのだろう。だが、この世界ではそうではない。
「お願いがあって来たの」
「言わなくてもわかる。……記録を見たいのでしょ」
 シュラインは苦笑めいた表情で、肩をすくめた。
 なぁん、と黒猫のゼーエンがひと鳴き。
「こちらへいらっしゃい」
 高峰研究所の、古めかしい廊下を、シュラインは案内されて歩んだ。
 やがて通れたのは、うす暗い部屋だ。
 壁の棚を埋め尽くすおびただしい資料ファイル。
「ここには……、日々、この東京で起こる、誰かが出会ってしまった『闇』の記録が収められていく。あなたの知りたいことも、すべてこの中にあるわ」
「ありがとう」
 シュラインは礼を言った。
 高峰沙耶はそれには応えず、客を独り残して姿を消す。
 シュラインは時計を見る。
 そして、棚に歩みよると、片っ端からファイルを抜き出していく。ファイルのラベルにはどれも「草間興信所調査依頼」という文字が見てとれた。

 そこは何処だっただろうか。
 東京だ。それには違いない。
 この極東の島国の、首都たる、世界有数の大都市。
 東京の何処であるか。それはわからない。そして、もはやそれはどうでもよい。
 そこが東京であること。それだけで充分なのだ。
 ササキビ・クミノは、東京のどこかにある、廃ビルにいた。その屋上から、周辺の街並を眺めていた。
 最初はただ立ち尽くし、次に鉄柵にもたれかかり、やがて床に坐り込み、膝を抱え、そのうちそれに飽きるとそう広くもない屋上を散歩して回り、一度は柵の外に出て、建物のぎりぎりの端に立ってみさえした。
 今は、また柵の内側から、そこに体重を預け、視線だけを遠くに投げている。
 自分がいなくなっても、必要なことはすべて処理される手筈になっている。ゆえに、何の憂いもなく、また、だからこそ、この24時間は、なすべきことが何もない空白であった。
 それでも、時間は流れてゆく。
 彼女が見下ろしているうちに、東京の街には昼が来て、人々と車とがあふれかえり、しだいに日は傾いてゆき……、夕焼けが遠くにかすむ高層ビル群をたそがれに染めたかと思うと、やがて夜の装いに変わってゆく。
 そこには、いつもと違うことは何ひとつ見当たらなかった。
 そう――
 変わらないのだ。
 この街も、その日常も。
 ただ、この一日が終わり、明日の朝が来るとともに、ササキビ・クミノというひとりの少女が消えていくだけ。
(いや、それも違う)
 彼女は否定する。
(私が…………死ぬ? まさか――)
(まるで悪い冗談)
(いや、実際、ジョークと考えるべきなのだろう。ブラックジョークだけれど)
 それは強がりなどではない。
 彼女自身は滅びることは間違いあるまい。すでにその肉体はありえない損傷を受けている。みだしなみはきちんと整え、包帯を巻いて隠してはいるが、あの醜い傷が消えたわけではない。
 今、ここに立っている少女は間違いなく死ぬ。
 だが……、ササキビ・クミノは――
(死ぬはずがない)
(だとしたら、この私は誰だ)
(私が、この『東京』の、ササキビ・クミノではないとしたら)
(あるいは私の死、そしてその蘇生が)
(この事態を招いたのだとしたら)
 病院で目覚めたとき、クミノは、自分が鉄骨の落下事故に巻き込まれて死んだ女子学生だと知った。そのことで笑い出しそうになったのだ。
 鉄骨の落下事故に巻き込まれて死んだ女子学生?
 今まで一度だって、自分はそんな存在でありえただろうか。
 あるときは妖魔と戦うなりわいの少女であり。
 あるときは荒廃した世界を救う戦士であり。
 あるときは神の軍団に立ち向かう魔に属するものであり。
 あるときは企業傭兵として生き、周囲の一切の生命を根絶する《障壁》を持った……
(そのどれでもない、この自分は)
(平凡な女子学生。まるで、そう……)
(終わりのない闘争に生きてばかりの自分たちが、夢に見たような――)
 唯一の、平凡な人生の可能性。
 界鏡現象の向こうに、無数の世界と人生が分岐して存在していることはわかっている。
 そしてそれは分岐点ごとに新たに観測されることで、その現実を確定してゆく。
 箱を開けてみて、その生死がはじめて定まるシュレディンガーの猫のように。
(この自分が死んだことで)
(シュレディンガーの猫の死が決定したのだとしたら)
(その瞬間に、すべて遡って、この世界の過去がつくられたのだとしたら)
 クミノは考え続ける。
 だが、そうだとしても。
(今さら、何ができるって言うの)
 すでに世界は決定してしまった。
 猫の死は観測されてしまったのであり、数時間後に、自分が死んでゆくしかない。
 それでも、この『東京』そのものは、変わらず在り続けるだろう。
 だが、クミノが最後に気にかけるのは、彼女と同じように死んでゆこうとしている他の3人のことなのだ。
(もしかしたら、私が巻き込んでしまったのかもしれない)
 それさえ、思っても詮無いことだった。
 苦い諦念が、ゆっくりと、少女を支配してゆく。
 いつのまにか、時刻は夜になっていた。
 終わりの刻へ向かって、すべては動き続けている。

  4

 テーブルの上には、封をされた手紙が並んでいた。
 セレスティはまず、書斎で遺言の作成にとりかかり、財閥の今後についての指示と、自身の膨大な資産の扱いについての考えを書き残した。それが済むと、あとは個人的な人々に宛てた手紙を書いたのである。
 何をどう、言葉を尽くしても、別れの言葉は哀しみしか生まないかもしれない。それでも、別れを言うべきだと、セレスティは思ったのだ。
 別れを告げるべき人々は大勢いた。すべての手紙を書き上げる頃にはもう日も暮れていたほどである。
 その仕事を終えた今、セレスティは自室の安楽椅子に身を沈め、アンティークの蓄音機から流れる音楽に耳を傾けている。
 膝の上にはずっといつか読もうと思いながら読めないでいた本。
 ゆったりとした夜の時間を、活字を追いながら過ごすのが、セレスティにとって気に入りの習慣だったから、最期の時もそうやって過ごすのがいいだろう。
 表層意識では本の内容を咀嚼しながら、どこか別の部分で、セレスティは思う。今、読んで、理解したこの本の内容は、私が死ねばどこにいってしまうのだろう、と。
 すべてが無に帰すのなら、最期の時間を本を読んで過ごすというのはある意味無駄であり、ある意味ではそれだけ贅沢なことと言えたかもしれなかった。
 死。その先には何があるのか。それとも何もないのか。
 やがてくるその瞬間を前に、セレスティはひどく落ち着いていた。
 心はむしろ、静謐とさえ言っていいくらいに澄み渡っている。
 しかし、だからといって、穏やかで安らかであるばかりとも言えない。やはり、残していく人々のことを思えば不安にも気掛かりにもなる。些細な心残りや後悔は数え上げればきりがないのだ。
 しかし、そんなことは越えて、セレスティは迫ってくる《死》に畏怖にも似た気持ちを味わう。
(メメント・モリ)
 汝、死を思へ――。
(この世の、あらかたのことを見聞きしてきたと思っていた私が、唯一知ることがなかったのが、自身の《死》)
(私が甦りを経験したのは、もしかしたら、それを見つめる時間を、与えられたということなのかもしれませんね)
(それを与えてくれた存在を、何と呼べばいいでしょう。神? それとも運命?)
(ともかく私は感謝をしなくてはいけません)
(愛する人たちに、別れを告げる)
(別れを告げられる愛する人たちが、私には大勢いるのですから――)
 窓の外が、ゆっくりと白み始めていた。

 和馬は高台に停めた車の中で、東の空が明けはじめるのを見ていた。
 シートをすこし寝かせて、背中を預ける。
 その場所は、いつか、夜景を観に来た場所だ。
 その夜も、東京の街は、いつもと変わらぬ煌めく夜景を和馬に見せてくれた。それももう、急速に色褪せ、消えていこうとしている。
 和馬の手の中には、鈍色のマフラーがあった。昨年のクリスマスに、それをプレゼントされた。冬のあいだ中、和馬はそれを首に巻いていた。今年の冬にも使うはずだったのだが――。
(面白ェ人生だったよ)
(ほんとうに面白ェ)
 いったい誰が想像しただろう。和馬自身、生まれて、長じるまでのあいだには、夢にも思わなかったはずだ。
 獣の呪いにとらわれ、人ならざるものと化して、何百年もの時を生きてきた。
 そのあいだに邂逅った人々とは否応なく、時間に引き離された。
(それを思うと)
(これでよかったような気がする)
(アイツが先に逝くのを、今度こそ、俺は見送らなくてすむんだから)
 世界を彷徨し、そして最後にたどりついた地――東京。
 ここが、和馬の約束の地だったのだろうか。
 その答はわからない。ただ――
「リミット――か。これでようやくゲームオーバー…………だ…………」
 百年の孤独を生きた男は、その瞳を閉じた。

「何しに来た」
 クミノは呟く。
 腰をおろし、上体を柵に預けた姿勢のまま、屋上にあらわれた少女を睨むように見返す。
「別に。ただちょっと……、そう――、看取りに来たの」
「必要ない」
「かもね。……死ぬときくらい大人しくしたら」
 少女は誰だろう。
 ササキビ・クミノ?
 それでは自分はいったい誰か。わからない。だが、どうでもいい。
「皮肉ね」
 彼女は言った。
 だが彼女とは、どちらの彼女だったろう。それさえ、もう判然としない。
「あなたはもう死ぬのだから、私の《障壁》の中にいたって問題ない。あなたが存在することで、この私は、あなたではなくなった。私はこの存在として生きなくてはいけなくなった。でも、そんな私の傍にいてくれるのが、唯一、あなただったなんて」
 彼女はしかし、もうその言葉を聞いていない。
 柵にもたれ、目を閉じているクミノの顔に朝日が射す。
 どこからか飛んできた鳥が、傍に羽を休めていた。

 東京の街に、朝がやってきた。
 その光は、カーニンガム邸の窓からも射し込んでくる。
 盛装とさえ言っていいセレスティの服の胸には、白い薔薇が咲いていた。安楽椅子の中で、彼は眠っているかのように見えた。
 彫像のようなその横顔は、どこまでも美しい。

 その朝日は、高峰心霊学研究所の窓にも、変わりなく射す。
 机の上に、シュライン・エマがつっぷしている。徹夜の調べものの最中に、うたた寝をしてしまったかのようである。実際、かつては、興信所のデスクでよくそうした彼女の姿が見られたものだ。
 彼女の前には資料が散乱していた。
 草間興信所関連の資料を……、彼女が最後にそこを出た日から、今日までの報告書を読破してしまうと、シュラインはどんどん過去へ過去へと遡り、記録を読み続けた。
 高峰研究所の保管する資料は際限がなく、それはバベルの図書館を思わせる。
 だがその浩瀚さが、シュラインにはありがたい。
 彼女は読み続けた。
 読むことによって、最期の瞬間までを、彼女は彼と過ごしたのである。
 だから、彼女の表情は安らいでいた。
 いずれかのファイルからふいに出てきたらしい写真の上に、その指が、そっとふれている。
 過ぎ去った時間をいつくしむように。

 はばたきの音――
 それは何のはばたきだったか。
 クミノの傍に舞い降りた鳥が、再び飛びたったのか。
 それとも、かれらを迎えにきた天使の……などという表現は陳腐に過ぎるだろうか。

 東京に、新しい一日がやって来た。

 昨日までと、何ひとつ変わっていないように見える朝が。


「没ッ。こんな文章で何が伝わるって言うの? はい、1時間以内に書き直しッ!」
「そ、そんなぁぁあああああああ」
 いつも通りの、アトラス編集部の喧騒。
 アンティークショップ・レンでも、あやかし荘でも、神聖都学園でも……大差ない日常が繰り返されているのだろう。
 そして草間興信所でも。
 今日も年代ものの黒電話が鳴り響く。
「はい、草間興信所――。なに……幽霊? 妖怪? あのなぁ、うちはそういう怪談は――」


 ぱたん――。


 高峰沙耶は本を閉じた。
 それを本棚に戻すと、黒猫を抱き、ゆっくりと、闇の中へと姿を消す。


 あとには、静寂だけが、残されたのだった。




(リッキー・ホラー・ショウ 〜DEATH & REBIRTH〜 ――完――)


【整理番号/PC名/性別/年齢/職業・クラス/登場ゲーム】
0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員 /東京怪談
1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。/東京怪談
1533/藍原・和馬/男/920/フリーター(何でも屋) /東京怪談
1883/セレスティ・カーニンガム/男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い /東京怪談


リッキー2号です。あらためまして、このたびは、「幻想燈火 夏語り夜話 〜夏期限定メモリーノベル」にご参加いただき、まことにありがとうございました。

『リッキー・ホラー・ショウ 〜DEATH & REBIRTH〜』後編をお届けします。

アクション全開、ホラー満載の前編から一転して、心理描写中心のノベルになりました。

本来、『東京怪談』をはじめとするOMCコンテンツのノベルにおいては、
ごく特殊な場合をのぞいて、描写されることのない、PCさまの「死」。
それを、じっくりと描いてみたくて、今回のノベルは企画されました。
そのもくろみが、いい形で達成できたかどうかは、ご参加のみなさまと読者の方に
判断はゆだねることになりますが、
ライターとしては、いい機会を与えていただいたと思っています。

このノベルを通じて、すこしでも、何かを感じていただけたのなら、
そしてそれがみなさんにとって、プラスのものであったなら、
そんなに嬉しいことはありません。

ご参加PCさまのご冥福をお祈りしつつ、筆を置きたいと思います。
黙祷――。